トリスタン・ツァラプロフィール

    
    パスポートの写真。おそらく二十歳前後。
本名    サミュエル・ローゼンストック Samuel Rosenstock
国籍
ユダヤ系ルーマニア人。のちにフランスに帰化
出身
ルーマニア、モイネシュティ村
誕生日
1896年4月16日 
おひつじ座。誕生石はエメラルド。
誕生花はチューリップ、花言葉「美しい目」 
身長、体格
150~160cmそこそこ、青白くて痩型
健康状態
近眼、頭痛もち
トレードマーク
笑い(ジャック・ゴーシュロンによる)
外見
頭髪は黒。額は通常。眉毛は黒。目は褐色。鼻と口は均整がとれている。髭はなし。顎と額は楕円形。(パスポートの記載より)
好きな詩人
ランボー ロートレアモン ヴィヨン
好きな音楽
バッハ 黒人音楽
好きな食べ物
ミルフィーユ
フィリップ・スーポーがつけたあだ名
「真珠頭の人間」
(スーポーはダダに参加し後にシュールレアリストにもなったフランスの詩人。「Litterature」という文学雑誌のメンバー。)
フィリップ・スーポーの詩『リタニー』での言及
「トリスタンには医者がいる」
没年
1963年12月24日
墓地
モンパルナス墓地(パリ)

名前について
 トリスタン・ツァラというのはもともとはペンネームでした。1925年にルーマニア政府から改名を正式に許可されていますが、生まれたときにお父さんお母さんからもらった名前はサミュエル・ローゼンストックです。愛称はサミー。
 トリスタン・ツァラのトリスタンはフランス語で「悲しむ者」という意味、ツァラはルーマニア語で「故郷」という意味。なので名前全体の意味では、「故郷にあっては悲しむもの」「故郷を悲しむ者」というようなものになります。

国籍について
 もともとはルーマニア人です。モイネシュティで生まれ、そのあとルーマニアの首都ブカレストの大学へ行き、そしてスイスのチュリッヒの大学、それからア ンドレ・ブルトンらの雑誌「Litterature(文学)」のグループや友人のフランシス・ピカビアの熱烈な呼びかけに応じてパリへ渡り、以後フランス で生涯を過ごすことになります。1947年、51歳のときにフランスに帰化し、彼はフランス人となりました。
 詩や作品のみならず、家族への手紙さえもチューリヒ時代から全てフランス語で書かれています。
                                         (地図は総務相のもの)
赤線が彼の移動経路です。この時代は鉄道が主な移動手段でした。けっこうな距離ですよねえ。
ちなみにチュリッヒはベルンのちょっと右上にあります。

外見について
ツァラがはじめてパリに来たとき、期待に胸をふくらませて待っていたアンドレ・ブルトン、フィリップ・スーポー、ルイ・アラゴン、ポール・エリュアール (全員「Litterature」メンバー。のちにフランスを代表する詩人となる)の4人は、ツァラがやってきたフランシス・ピカビア(ダダイズムを代表 する画家)のアパルトマンに駆けつけました。写真(おそらく上の写真)は見ていたものの実物を見るのは初めてです。期待していたぶんかなり拍子抜けしたら しくアラゴンはこんなふうに述べています。


「隣 の部屋のドアが開いて、焦茶色の髪をした小男がでてきた。彼は足早に何歩か歩いて立ち止まった。どうやら近眼らしい。私の目の前にいるのはたしかにツァラ だった。でもツァラが鼻眼鏡をかけた若い日本人のようだなんて思ってもみなかったので、私は少しためらった。彼のほうもどぎまぎしているようだった。(中 略)肘を身体にぴったりと付け、とても華奢な手をして前腕を水平に伸ばしたその姿は、前髪の一部が眼までかぶさっているせいもあって、昼の光にびっくりし た夜の鳥のようにも見えた。たいそう綺麗な顔立ちであることはすぐにわかったが、会話が始まって2分ほどして、彼がゲラゲラ笑い出したとき、分け目から垂 れていた髪が何本か額にふりかかって顔を二つに割る恰好となり、その顔立ちは台無しになってしまった。なんてみにくいんだろう!笑った後にちょっとぼんや りした表情を見せたが、そのときの死人のように青白い顔には、東洋的な繊細さがあった。一切の激情の炎は、非常に美しい真っ黒な瞳の中に吸い込まれてい た。」
 (「プレイバック・ダダ」塚原史著 講談社現代新書、「トリスタン・ツァラ 言葉の四次元への越境者」大平具彦著 現代企画室 より引用)


左がアラゴン、右がツァラ

また、彼がパリに着いたときに初めて彼を迎えたピカビアの妻エヴァリングはこう表現しています。
「その男は背が低く、少し猫背で、短い腕をぶらぶらさせていました。手はぽってりしていましたが、繊細そうでした。」

そのほかのツァラ描写:
「やせた青白い鼻眼鏡の若者」(チューリヒ朝刊紙、1919年)
「華奢な身体に眼鏡をかけ、小心な銀行員のように見えるわりにふてぶてしく、ときに気がふれたかと思わせるふるまいにおよぶ」(
「マン・レイ 写真と恋とカフェの日々」ハーバート・R・ロックマン著 木下哲夫訳 白水社 より引用

笑いについて
ジャック・ゴーシュロン「太古の穴居人の笑いであり、人に対して砂利のように投げかけられる無礼な笑いであった。また、ときには快活な抑揚をもっている が、作品の中では、多くの場合、苦い、残酷な、そして嘲笑的で勝ち誇った、しかし優しい役割をはたす多義的な笑いであった。」
アラゴンには、「ゲラゲラ笑う」と表現されちゃってますしね…。

ツァラの死について
1963年12月25日の夕刊各紙は、ツァラの死を報じました。
「ダダ運動の創始者、トリスタン・ツァラ死去――詩人トリスタン・ツァラが、火曜日の夜、痛ましい病気の後、パリの自宅で死去した。六十七歳だった。」(『ル・モンド紙』)
「《ダダイズムの法王》トリスタン・ツァラ死去」(『ル・フィガロ』紙)
「《ダダイズムの法王》トリスタン・ツァラ死去」(『ル・コンバ』紙)
「ダダはルーマニアで生まれ、トリスタン・ツァラはパリで死んだ」(左記表題によるピエール・マザールの追悼文、『ル・フィロ・リテレール』紙 1964年1月2~8日)
そして、朝日新聞は↓
  昭和36年12月26日 木曜日
「<外電豆手帳> トリスタン・ツァラ氏(ダダイスト運動創始者) 二十五日夜、パリで死去。六十九歳。ルーマニア生まれの詩人。1916年にダダイズム思想を発表。"ダダ イズムの法王"と呼ばれ、一時その考え方はパリと一部外国で大騒ぎされた。」

日にちと享年が間違っているのはご愛嬌、ということで…。この面(12面)には「中ソ対立」「キプロス平静取り戻す」などの見出しが踊り、角川文庫はまだ共産党宣言を広告していました。時代を感じさせます。


墓地について
墓地はパリの14区にあるモンパルナス墓地です。ここにはマン・レイやサルトル、ボーヴォワールのお墓もあります。インターネット上でツァラのお墓参りをしたい方はこちら→Find A Grave "Tristan Tzara"
 
ツァラの墓標
モンパルナス墓地はとても広々としていて、日本の墓地のイメージとは違ってさわやかな公園のような感じです。まわりに立派なお墓が沢山あるのに対して、ツァラのお墓はかなりひっそりとしています。

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