彼にとって、重要なのは日常の論理を破壊することであった。しかし、彼は毎夜貪欲な大衆にダダイスト達が好奇心の糧を与えているのではないかと疑う世間を警戒しなければならなかった。というのは、彼は彼らにあるひとつの、日常的な方法よりもより優れた新しい知性の在り方をこそ提供していたからである。しかしツァラはこのようなことについて少しも主張することはなかった。だからこそ、彼はついに、一種の独我論であり、何人の介入をも許さぬAaismeを称揚するに至ったのである。ツァラ‐Aaは最も基礎的、もしくは矛盾する彼らの反動以外の何物も表現したいとは思わなかった。
知性、これこそが諸悪の根源なのである。真の叡智となりうるアタラクシア、魂の平静を手に入れるには、もしも、ツァラが我々が物事を複雑にしたがる趣味、「ジャック・リヴィエールへの公開書簡」に彼が書いたように「僕を退屈させないこと、ただこの偉業を成し遂げるためだけの、肉体的な力と神経による抵抗」といったものを持たないのならば、我々はその知性を棄てなければならない。
読み書き、思考を知らない、これは完全よりも完全なダダイストであるAa氏のモットーといえるだろう。
哲学に対する敵対を表明することによって、Aa氏は少なくとも暗黙のうちに、彼自身いくらかの哲学的知識を持ち、また彼があるひとつの、一般的な思想に反した独自の思想、doxaを言明していることを認めている。彼自身について明晰に、彼は言う。「もしシステムの欠如の中にシステムがあったとしても―それが僕にぴったりくるものだったとしても―それでも僕は決してそれを適用しない。」その知性の鋭さによって、彼は哲学的システムであろうと全ての敵対者は、その発言の延滞像で既にシステムを、彼自身も一部であるシステムを構成するということに気付かざるを得なかった。彼はこの哲学が、ほとんど仏教的ともいえる平静状態へと通じることを望んでいた。いくつもの哲学の基本原則を考えに入れて、彼はそうしたものたちに譲歩するかのようにみえる。「魂は必要である。」が、それは「地下室を超え、思考を使っていくつもの美文家の派閥に集結しながら、抑圧されて、保守的な魂の高みを待ち焦がれる」自称哲学者をより嘲笑するためのものである。また別の表現では、既成の意見を確認し、またこうして彼らの思想を広げていくために給料を貰っている哲学者たちだ。真実は一般化された狂気のもとに表出する。ある意味では、彼はそのヒューマニズムを自認せざるを得ないようにも見える。それとはつまり、あるがままの人間の性質への彼の容認であり、反ダダや札付きの注釈家を不快にさせるものだ。「ああ!人よ、どれだけ僕は君を愛するか、失われた時の犯罪者、あまりの情状により取るに足らないものとなり、狂乱と平静の主人であり、頭脳と筋肉の中の強者全て。」他の箇所でも、彼はこう言う。「僕の平野は全ての平野と似通い、人々は全ての人々に似通う、畜生、幸せなどない、人生はなるようになるし、ただ一つの幸いとは、退屈を知るときだ…」。このような確認における教訓とは、つまり、明白な事実に帰着し、「愛する者をはぐくむ者は己をよく知る」という共通の天命を受け入れなければならないということである。人間は、平行な二つの舗道に同時に足を置くことはできない。これは誰にとってもそうであろう。「七つのダダ宣言」の教訓を思い起こせば、Aa氏は活発な素朴さにしがみつき、もうこれ以上なにも見つけることはないということをはっきりと知りながら未来を見つめるある種の人々に信頼をおく。
不条理の哲学、もっと後には実存主義とも呼ばれるものとも近いが、Aa氏は絶望や自殺というような結論は導き出さないという点で、それとは一線を隔している。彼にとって生とは、それでもなお魅力的なものであり、そして彼が知性と思考を疑ってかかるとき、彼は記憶の結合に、体験される瞬間々々のあるがままを、ダダのように求めながら、人間の善良さのポジティブな面を引き出すために結合することの可能性を認めているのである。
Aa氏の思考に向ける不信を言い表すのに、どんな強い言葉でも、言い過ぎにはならないであろう。彼の周りで、人々が自分の正しさを認められるためや、自分を安心させるために何かを結論付けたがるといっただけの理由で、手に負えない使い方をしている思考。しかし、この不信は完全な拒絶ではない(どうしてそんなことが可能であろうか、Aaはそれでもなお、読者の知性、つまりある種の思考の運動に訴えかけているのに?)。それどころか、「salto
vitale」に夢中になった、大文字の「思考」のパラドクサルな賛美にまで到達する。「salto vitale」、一般的な人間性の向かってゆく死の激発の対称物とも言えるだろう、意識の激発である。そして常に舞い戻る万有サーカスのイメージ、全てが入り乱れる観覧車、反哲学者がダダと同じように団長であり見世物師であり、何も喋るな、何も見ず、何も宣言せず、何よりも全てを疑えと観客全員に語りかけるのだ。それでいて、彼は何も知らないというわけではない。彼は、彼の成すこと全てが生産物であり、視覚と聴覚のを揺さぶるものであり、そしてそれゆえ、他の人間の関心をひくに値する、ということを知っていた。
反哲学者Aa氏の哲学の行き着くところは、したがって人間の言語と、一般的な表現の手段を、全ての規則、そして規制の美的標準から外れたところで考える、新しい手段であった。
格子のように表される言語の内側の、自由の余白は狭いものだ。私達の発言のそれぞれの後ろに、いつも誰か利益を得ようと待ち伏せるものがいるだけに一層、そうである。Aa氏は、我々に自己表現するために話させ、思考や感覚や感情を伝達させる慣例的なゲームに参加することを拒んだ。「しかし言語への投資家は、議論においていつも少量のパーセンテージしか受け取らないのだろう。」と、彼は宣言文の中で告発している。そこに、誰も影響を与えることの出来ない、自分本来の言語を育成する欲望がある。「お願いだから僕の半言語の率直さを乱さないでください」、と彼は詩の中で懇願する。『思考の堰』というこの作品は、芸術表現であると同時に詩の批評であり、またおそらくは、私達がたった今読んできた彼の創作における発端ともいえるべきものの性質のために、決して彼の書くことのなかった「言語論」を視野に入れた彼の熟考の末の意見を、最も遠いところから主張するひとつのピースであるかもしれない。
別の言い方をすれば、彼の目的の本質は、人間の言語、そして特に詩の基盤を形作るものの追求であった。リズムと、母音が構成する核。問題は、もしも言葉が自己自身の探求の手段、知識の一要素であるのなら、すべての言葉は嘘である」がゆえに、それらに信用を置くことは不可能だということである。ただそれらで軽快に音を鳴らす楽しみ、倒錯して自慰的な楽しみだけが残るが、それらはその発信者に跳ね返ってくるので、まったく危険ではないとは言い切れないのである。
倦むことなく、反哲学者Aa氏は彼の言語、文法のロジック、凝固した構文論法に対する批判を繰り返す。
芸術表現だけがそこに残るのである。「詩は、籠の中の雨の理由に対する答えであり、犯罪の理由のデッサンである。」同じように、「呼吸の道は人々が中国のインクを抜き出す一本の木の中で終わり、そしてそれらはいつも、詩とデッサンによって終わりを迎えるのである。」この創造的な役割は人間が生きるために必要不可欠なものであり、その実在と不可分なもの、呼吸機能と同じくらい明白なものなのである。それでいて、人は詩にしろデッサンにしろ、呼吸するように創造するだけでは満足しない。彼は、そこから、世界を解読し、理解し、分析することを欲するのである。詩とは認識である。詩は精神が合理的に着想するわけではない神秘的な寓話を語尾変化させる。なぜなら、それらは存在の全体性から発せられるからである。
ある程度、ダダはただ詩だけに没頭するために全ての取り決められた型を放棄するAa氏の目には、まだあまりに文学的であった。何故なら、ダダの作家達は全て冗談屋であり、「冗談の総合体、すなわち、文学」だからである。
Henri Béhar
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