TRISTAN TZARA  Moinesti(Toumanie, 1896 - Paris ,1963)
Moinesti (Roumanie), 1896 - Paris, 1963

-トリスタン・ツァラ、どこでもないところの男-
マーク・ダシー



 比類なき運命、フランス詩史だけでなく世界の文化において、トリスタン・ツァラ、詩人、理論家、1918年にマニフェストという唯一の美点によって見出される、だいたいのところそれは真実であるが、芸術それ自体に対する不可逆的な問いを作動させること、これからは同時に、世界の軌道に巻き添えになった隔離分野(第一次大戦下である)として、またこの精神錯乱への批評を実行することをもとにした場所として描かれる: 社会組織が常に待ち望み要求してきたものへ芸術を逃れさせること、その中で形や意味を刷新すること、それは本質的なユートピアとプロトタイプの若芽を芸術に与えることである。
 このことは例えばコラージュにおいて顕著だ。コラージュとはセミオティックなシステムを裸にし、表現を条件付ける仲介物を廃止する。この行為は同時に旧式の美の抹消であり、また新しいフォルム、動き、移ろいやすさそして未完成への置換である。こうした文脈の中で、コラージュはグローバルな ipso facto (= il va de soi、自動)だ。創造の手続き、構成による破壊は芸術を、あらかじめ決定された意味のぎこちなさから解放し、またこうしたものを自由にする: 素材(レリーフ、貼られた紙、オブジェ彫刻)、言葉(自由散文、自動詩)、言語と文学(広告詩、具体詩、音素)、光(写真、抽象絵画)、意味(活版印刷術)。絵画(コラージュ、アッサンブラージュ)はもう物語を語らず、それ本来固有の実現を叙述する。言語は決まりごとの中で削減されず、語りの展開において、その構成要素は美と、可能性を秘めた開花のために立体性をもたらされる。クルト・シュヴィッターズはその宣言の中でこれをよく説明している:「私の中に『その芸術(son art)』が存在した。革命の反射のように、それがそうであったものとしてではなく、そうでなければならなかったものとして。」(註1)
 ダダ宣言1918は雑誌ダダの3号に掲載され、その表紙ではデカルトの引用が西洋社会へのラディカルな批判を表明している。「私は私の前に人間がいたかどうかなんて知りたいとさえ思わない。」他の部分、宣言の中では、ツァラはダダを社会的身体とアートのフォルムへの異議申し立てと定義している。はたして我々は前進しただろうか。;「こうしてダダは生まれた、独立の必要と、共同体への不信から。我々に与する者は自由を持ち続ける。我々は何の論理も持たない。キュビズムや未来派のアカデミズムにはうんざりしている;明確な理想の研究所。(…)それぞれが叫べ;否定と、破壊の大仕事が成されなければならないと。拭い去れ、一掃せよ。個人の潔白さは狂乱状態の後に確立される、攻撃的な狂乱、完全な、世紀を破り破壊する強盗の手の中に放り込まれた世界の狂乱。目的も意図もなく、組織もない;不屈の狂乱、変質。」

場所と方法 有名なランボー風の方法を取り戻すために、ダダは「場所と方法」であった。ツァラの運命の唯一性は、芸術の中でも稀有な例を呼び覚ます。そこでは長い間助長されてきた、熟し切った行為であることからは程遠く、(例えばJames Joyce の Finnegans Wake)、アーティストの主な行為は、出発の雷光であった(もしくは、おそらく、そうであった。)この点において、ツァラの足跡は1915年の絶対主義と「黒い正方形」によって不可逆的に絵画領域を変質させたカジミール・マレーヴィチのそれとmutatis mutandis(ラテン語:変るべきだったのに既に変えられてしまったもの)、同じようなものである。マレーヴィチが次の行動を起こし、二度と黒い正方形の男ではなかったのと同じように、ツァラも決して、ダダとダダ宣言1918年の男ではなかったはずである。
 ツァラの唯一性は、最も進んだ芸術的なものの中でコンセプトと行為の逆転を生み出す革命の引き金を引いたその21歳であっただろうし、またもし言えるとすれば、この鮮烈な動作を生き抜き、それに決定的な疑いを表明しただけでなく、それによってもなお創作しなければならなかったかもしれない、「世界」における「近似的人間」の謙虚な運命を受け入れたことであるだろう。生きることにおいては、同じ流れの中に二度と我々が身を浸すことのない、時の軌道を受け入れることが前提である。ツァラ、彼は狂気や自殺への簡単な誘惑に少しも影響されることはなかった。彼はダダ宣言1918の中で、相反する、またいずれにしても異なり場合によっては矛盾する動作を同時に行うことのとの可能性のような、共同的行動を見たと述べている。この趣旨でいけば、チューリヒで、ツァラはエネルギーの触媒作用でありまた、場合によっては、指導者ではなく、個々人が完全な自主独立の役割をとっていたグループの、舳先の像であった。グループは強烈な個性によってつくられていた:バル、アルプ、ヤンコ、リヒター、セルナー、ドーベー。
 1924年頃にアンドレ・ブルトンのまわりに集うことになる若い詩人たち―1924年ということはダダは終わっている―は、ツァラを恐怖に震いあがらせるグループの理論を掲げる。彼は殆ど辛辣さをもって詩人のベンヤミン=フォンダンとイラリー=ヴォロンカとの対話の中でそれを述べている:「ダダについてお話しましょうか?よく聞いてください。流布されている間違ったニュースとは反対に、それによればダダは何人かの個人の辞退によって死んだということになっていますが、ダダを殺したのは私自身自ら進んでのことです。何故なら私は個人の自由な状態は最終的に集団的状態になったと考え、また異なる「総領たち」が、同じようなやり方で感じ考え始めたと思ったからです。しかし、狂気に近く常識に反対する個人の運動を堕落させる大脳の怠惰ほど私にとって不快なものはありません。今日私がシュルレアリズムに批判することは、この考え方と同じことです。追い越すことを知らない追随者達が、支配的な立場をとりました。凡庸さが全てを均一にし、衰弱と愚かさは、片付け方を未だに知らない糞の中に再び足を踏み入れています。思想の偽善的な建前の状態は外部に規律正しさと全員一致の印象を与え、そこには貧しさと抑圧しか存在しません。」
 チューリヒからパリへツァラを呼んだブルトンとピカビアは、続いて起こるいさかいと和解を経て、二度と「客観的な」友人ではあり続けなかった。それでも、形象や物体としての詩からは全く見る影も無い、ダダ宣言1918の思想や詩作品の文筆活動の主軸となった本質的な孤独が、パリでのツァラを常に締め付けるということに疑いの余地は無い。

統合された詩人 1人の人物を、多少なりともそれが彼(ツァラ)を構成していたにせよ、全く真のランボー的人物像として理解することは、もし我々が一貫性を忘れてしまったならば、できない。パリはHararではないが、ツァラはいずれにせよ、そこでいかなる流行にも文芸の野心にも出資しないだろう。七詩聖になど見向きもせず、リーダーシップの欲望などかけらも持たず、統合された詩人そして輝く理論家は、生き、思考しそして制度上または出版の全ての保証の外側で、書物を刊行することを追い求める。彼は書いていなかったか:「ダダイストの興味を惹くのは、本質的な生の手段だ。」 詩人のパリ到着の何週間か後にジッドによってNRFの中でツァラに投げつけられた呪いが、そのノン-《キャリア》にどれだけの重さでのしかかったかを今日判断するのは難しい。ジッドはツァラを名指しはしなかったが、魅力的で、外国人で、ユダヤ系の青年として描写している。「彼は外国人に属する」とジッドは加える、「我々のフランス文化にとっては取るに足らない。」この文をピカビアは忌まわしいものとして受け止め、すぐさま反撃する。「もしジッドを10分間大声で読んだら、口の中が臭くなる。」 つまり知識階級の中心であり、そしてこうした、ダダによって問題にされた価値に対しての内属的防衛のメカニズムを通訳する彼らの主要な作家達の1人の声によってである、ツァラが、彼によってスキャンダルがもたらされる人物であると描写されていたのは。ブルトンも確かにツァラを称賛し、彼の雑誌「Litterature」に掲載したが、しかし彼はジッドをその雑誌の創刊号の最初に出版し、またプルーストの構成のためにNRFに雇われてはいなかったか?
 ウィリアム=ブラフがツァラについて述べた『homme de nulle part』は、このこともまた意味する: この、どこでもないところの男は、プルーストの校正もしないし、ジッドの心も惹き付けず、そしてバレスについて少しも気にかけず、それが何であれその批判に意義を見出さなかった。ツァラは制御不能であった。「どこでもないところ」の、しかしたった数ヵ月後に彼は世界的な知的権威を得る(註2)。盾を装備することは火急だった。「Si le grain ne meurt」の著者は用心を怠らなかった。ツァラは自らに思考の自由を許し、その方法を与えた。我々は、自由な人間が被害者となる狭量さを過小評価することはない。それは白日の下にはほとんど場所を持たず、そうでなければうわべだけの理由で防御し、そうした理由の後ろに、自認できない言い訳や、過ちを犯す連帯を隠す。ヒューゴ・バルがCavaret Voltaireに書いたように、ダダたちは彼らの独立を喜んだだけでなく、それを証明したのである。



1)クルト・シュヴィッターズ、Merz、1930の自動筆記、フランス語、Kurt Schwitters中 訳、Marc Dachy / Corinne Graber, Champs libre編集 Lebovici、1990、p.168
2)この点について、ジッドはこのようなはぐらかししか対応策を見つけられなかった; 「ダダの発明者にとって大きな不幸であったことは、彼が挑発したダダ運動が彼を突き飛ばし、彼自身が自分の機械で砕かれてしまったことである。残念だ。」 これはツァラ自身が予想も計算もまったくしていなかった成功の、根拠のない解釈だった。しかしすべてはこの風味のたっぷりの「残念だ(C'est dommage)」の中にある。
3)ツァラはNRFで彼の校正もしなかったはずだ。1951年、ダダ宣言たちのNRFにおける再編集の可能性も、退けられた。これについてはMarc Dachy 《L'objection de la date》、Archives et documents situationnistes,2号 Denoel 編集 2002秋 を参照のこと。


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