TRISTAN TZARA  Moinesti(Toumanie, 1896 - Paris ,1963)
Ecrits

トリスタン・ツァラの仕事



  「我々言語の出資者はずっと、議論の場において微量の歩合を受け取るのだろう」(T.Tzara [1920], 1975, p.376)
  「ダダイストの詩を作るには…」この有名な秘訣によって、トリスタン・ツァラはどんなものについてもあらゆる方法により作られる、ダダの詩というものに含まれるコンセプトを、鏡の中におけるように、与えると同時に読者を惑わせようとした。しかし、もし偶然がツァラの詩の中で大きな位置を占めていたとしても、それは無意味なものではない。開かれた存在であるために、えぐられた切れ込みと、言葉の中で実践された歪みつまり新たな感覚の可能性を超えて、詩は端から端まで一貫性のないフレーズを並べたものの結果では全くなく、むしろ生の複雑性から自発的に豊かに溢れ出たものなのである。
  「アンチピリン氏の最初の天上冒険(La Première céleste de M.Antipyrine)」はトリスタン・ツァラの最初の本であり、また「コレクション・ダダ」として1916年にチューリヒで出版されたものの最初のものである。まずはじめに大衆の前で最初のダダ宣言として作られたテキスト、異なる「声高な発言者」としての役割を与えられたフレーズたちの成功は、読者をもひっくり返した。言葉の振動する並置や、奇妙な語彙、外国の語彙、リズミカルなオノマトペ、反響や脱臼の中に押し込められた言葉たち、全てがその文学的な恣意性を混乱させることと、また言語の曖昧な自然の意識を自ら獲得することを目指して、協力し合っている。
  「最初の」及び「二回目の」「アンチピリン氏の天上冒険」(この最終版は1920年に雑誌「Litterature」と「391」の中に出版された)は、見ての通り詩でも演劇でもないものだったが、1918年にチューリヒで刊行された「25の詩篇」はそのタイトルからして、ある明確な立場をとっている。しかしこれはあくまでもその立場自体に疑問を投げかけ、またそれを一新するためのものだ。散文的に考えられた要素の導入、その音楽性の探求―不協和音的であろうと―、さまざまな断片のコラージュ、対立、衝突などは論理的な考察よりもまず、知覚や感覚を呼び覚ます。
  「抽象的な心のシネマ・カレンダー。家々(Cinéma calendrier du coeur abstrait.Maison)」は1920年にパリのSans Pareilから出版された。この20と1つの短い詩の連作は(言語)解体という点では先のものよりおとなしい。フレーズは流れ出す。しかし意味は流されている。頭韻法を用いることによって、時にはグロテスクさ、また音素から音素へのリバウンド、超高速で投げ出されるイメージによって、詩の意味するものはすぐには見えてこないが、しかし驚きとまた欠陥から、それらは自ら明確に身を曝け出してくる。この作品の第二部の「家々」は、友人らに捧げられた詩の連作で、人間とその心象風景を思い出すという抽象的な行為である。
  1923年にツァラは、1912年から1922年の間に書かれ、また異なる雑誌で発表されていた彼の他の詩を、一つの「ぼくらの鳥たちについて(Des nos oiseaux)」という本にまとめた。これは1929年にしか発売されていない。それでもこの本は、既に刊行された二冊の本と同等に重要なものである。ツァラが翻訳した「黒人」詩に由来するオノマトペやそうした語彙、構成詩、簡単なテキスト、ほとんど叙情的と言える詩、ユーモア、言葉の拡張は、ツァラの詩に、ダダの挑発者というキャラクターを超えてゆく広がりをもたらしている。
  1920年にパリで上演された「アンチピリン氏の天上冒険」に続いて、ツァラは「ガス心臓(La Coeur à gaz)」という作品で演劇というジャンルに直接挑む。この作品はギャラリーMontagneで1921年の6月と、1923年7月の髭のある心臓の夕べで上演され、ベルリンでは1922年3月にDer Sturm上で発表された。この「戯曲」の登場人物たちは無意味な会話にふけり、音の反響や繰り返しを遊んだ。これは不条理で絶対にありえないシーンを、社会的コミュニケーションのそれへと変換するためのものであった。
  ツァラはまた何がダダであり、何がダダでないかを、定義することなく、説明しようとした。数々の雑誌に発表され、後に「Lampisteries」(編集者ジャン=ジャック・プルーヴェールのもとで1963年にのみ刊行された)の中でまとめられた様々な記事やノートや宣言文たちは、彼の作品のもう一つの面を形成している。
  「七つのダダ宣言(Sept manifestes dada)」は1924年にパリで、ジャン・ビュルディによって編集された。最も反響がありまたこれら宣言の基盤となるものは「宣言1918(Manifeste 1918)」であり、これは1918年にチューリヒで初めて人々の目に触れ、その年の12月に雑誌「ダダ」の第三号に掲載されたものだ。「破壊の、否定の大仕事が成されなければならない」とこの宣言は人々に告げる。偽りの論理や社会的基盤にさえ、またその時までに存在した全てのものに向かって警鐘を投げ込み、「生(LA VIE)」の他は何も称賛しなかった。この他の大きな宣言は「脆弱な恋と苦い愛についてのダダ宣言(Dada manifeste sur l'amour faible et l'amour amer)」であり、パリで1920年に発表された。ユーモアと皮肉の刻み込まれたこのテキストの中で、ツァラは全ての、自らを限定するもののダダへの侵入を防ごうとしているように見える。「ダダは何者でもない。ダダは何者でもない全てのものだ。」自らを捻じ曲げる以外には、ダダを関係付けたり、どんなものにしろ何らかの体系の中に整理しようということは不可能なのである。その態度の軸となるものとはつまり「ダダは全てを疑う(Dada doute de tout ダダ・ドゥートゥ・ドゥ・トゥー)」だ。
  ブルトンやアラゴン、エリュアールとの違いで言えば、彼らにとってダダとは、彼らの若い頃の影響から自らを解き放つための通過儀礼の一種であったのに対して、ツァラは早くもこの段階から、完全に新しい詩作を行っていたということである。真なるものにより近い言語を探求するために「個体間のコミュニケーションの仲介としての言語」に異議を唱えるということは、現代詩の中で大きな位置を占めるこうした道の中にこそあるとは言えないだろうか。
 
Rémi Froger



素晴らしい文章です。私はこの文章がDADAの大回顧展のツァラの頁に載ったということに大満足です!

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