詩人でありまた疲れを知らないダダの宣伝者でもあったトリスタン・ツァラ―本名をサミュエル・
ローゼンストックという―は、ルーマニアの裕福なユダヤ系家庭に生まれた。彼は非常に早いうちからブカレストの私立フランス語学校に通い、高校ではイオ
ン・ヴィネアとマルセル・ヤンコに出会う。二人ともフランスの詩が大好きだった。彼らは一緒に文学雑誌「Simbolul(シンボルール、象徴)」を作っ
た。ツァラはそこに、S.Samyroというペンネームで、フランスの象徴主義に影響されたルーマニア語の詩の連作を載せる。1915年に、おそらく家庭
の問題から、ツァラの両親は息子をチューリヒに送った。そこで彼は哲学を勉強するために大学に入った。Tristan
Tzara(Tarãはルーマニア語の単語で《terre(仏)=地球、世界、地上、現世、地方、国=earth,land,ground(英)》を表
す)という名前で署名された最初の彼の詩は、この年の10月に出版される。ルーマニアは1916年に戦争に参加する。我々は一体いつツァラが徴兵されなけ
ればいけなかったか知る由もないが、それでも彼が、徴兵猶予を知らせる手紙を秋に受け取り、1917年には兵役免除となったということは知っている。
彼がチューリヒに到着して間も無く、ツァラはヤンコとその弟のユーレに再会し、ヒューゴ・バルの日記にも書いてあるように、彼は彼らと共にキャバレー・
ヴォルテールの杮落としに参加する。1916年の間、彼はダダのイベントの編成や調整の中でだんだんと大きな役割を演じながら、彼や友達の書いた詩を朗読
した。リヒャルト・ヒュルゼンベックの影響であることは確かであろう、彼はアフリカやオセアニアの詩に興味を持ち、チューリヒの図書館で人類学の雑誌から
発見したアフリカ・オセアニアの詩を翻訳する。キャバレー・ヴォルテールでの黒人のソワレは彼のアフリカ・オセアニア芸術への趣味―これは彼の生涯続く―
から生まれ、彼はそうした芸術のコレクションをやがて始めるようになる。
1918年7月23日、ツァラはZunfthaus Zur Meise de
Zurichで「ダダ宣言1918」を発表する。同じくDADA3号でも出版されたこのラディカルな宣言はブルトンのもとへ届いた。二人の青年の間で結ば
れる関係は、一年後のツァラ(とダダ)のパリ到着から始まる。ほかの何よりもまず疑いなく、ダダの移動するキャラクターを具現化することによって、ツァラ
はチューリヒ・ダダに国際的な観衆をもたらすことになる。
ツァラはパリのアヴァンギャルド・シーンに雑誌「Litterature(文学)」に詩の講義を載せたことから参入した。彼はパリ・ダダに、文芸集会か
らあらゆる人が話題にする大衆スペクタクルへ変身を遂げたイベントの運営の才能をもたらす。彼はダダの編集長であり続けた。
活動的なコミュニストのシンパとして、ツァラはドイツによるパリ占領の間、レジスタンスのメンバーだった。1939年から1950年の間に、彼はアン
リ・マティスやアンドレ・マッソン、パブロ・ピカソらの挿絵で、自分の詩の選集を出版した。彼はダダのスポークスマンであり続ける。1950年にはパリの
大衆向けに、アヴァンギャルドの雑誌や新しい詩に目を向けた新たな番組のシリーズをラジオで放送した。1962年に、ツァラは初めてアフリカへ赴く。その
翌年、彼はパリで死んだ。
Amanda L. Hockensmith
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