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1896 |
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ルーマ
ニアのモイネシュティにて、会計士の父フィリップと母親エミリーの長男としてサミュエル・ローゼンストック生まれる。ユダヤ系の小地主、裕
福な家庭。 |

出生届。Rozinstoch Sammueliと書いてある。 |
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1912 |
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16 |
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S・サミーロの名前
で、ルーマニア語による詩を、友人のイヨン・ヴィネアとマルセル・ヤンコと共に刊行した雑誌『シンボール(象徴』に発表。 |
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↑ツァラの高校時代の成績表 |
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↑現在のモイネシュティ駅 |
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1914 |
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18 |
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ブカレスト大学入学。数学と哲学専攻。 |

↑16歳のツァラと、左に向かってお父さん、お祖父さん |
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1915 |
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19 |
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トリスタン・ツァラの
名前で、イヨン・ヴィネアと雑誌『ケマレーア(呼び声)』を刊行。
チューリヒ大学文学哲学科に留学。 |

ツァラ14歳、妹のルシーと。 |
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ピアノを弾く少年ツァラ |
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1916 |
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フーゴ・バル経営のキャバレー・ボ
ルテールで行われたイベントに、マルセル・ヤンコ、その弟のジョルジュ・ヤンコらと4人で参加。ツァラはルーマニア時代に書いた古典的なスタイルの詩をフ
ランス語訳したものを朗読した。 |
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夕方6時、ツァラ、DADAの語を発見。場所はチューリヒのカフェテラスで、そこにいたハンス・アルプがこのことを証言している。
ツァラは何気なくラルース独仏辞典にナイフを差込み、そこに偶然あったdadaという語を新しい運動の名前とした。
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1916年当時のラルース独仏辞典"DADA"の項目 |
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ヒュルゼンベック到着。「pan!
pan!pa-ta-pan!」で始まるハイな日記を書く。何かのイベントがあった。 |
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ツァラ、ヒュルゼンベック、マルセル・ヤンコの三人で同時進
行詩「L'amiral cherche une maison a loier(提督は貸家を探してる)」を朗読。 |
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20 |

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雑誌「Cabaret Voltaire」の出版。アポリネール、
モジリアニ、アルプ、ツァラ、ヒュルゼンベック、カンディンスキー、マリネッティ、ピカソ、エミー・へニングスなどが参加。この日の日記も
「Dialogue Da Dada dadadadadadadada」とハイ。 |
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7/14 |
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↑チューリヒの街でアルプと握手するツァラ(右)
←チューリヒのツァラ、21歳 |
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第一回ダダの夕べが開かれる。ツァラはここで
最初のダダ宣言、つまり「アンチピリン氏の宣言」を、自作の劇「アンチピリン氏の最初の天上冒険」の中で、トリスタン・ツァラという役柄で朗読する。その
ほかこのイベントでは、ボクシングや、立体派のダンス、ヤンコがデザインした衣装の発表、黒人音楽の演奏、体操詩、騒音詩、静態詩などが上演され大盛況と
なった。約300人でホールは満員だった。 |
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左からアルプ、ツァラ、リヒター |

ジャック・リゴーの向こ
う側にツァラ |

ツァラ |
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7/28 |
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「アンチピリン氏の最初の
天上冒険」(ヤンコの彩色版画付き)刊行。 |
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1917 |
1~2 |
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第一回ダダ展開催。
ファン・レース、アルプ、ヤンコ、セルナー、ファン・レース夫人、リューティー、リヒター、ヘルビッヒなどが参加。ツァラは三つの講演を行う。1、立体派
2、古い芸術と新しい芸術 3、現代芸術。 |
2~ |
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マックス・ジャコブ、画商ポール・ギョームなどと文通。後者
を通じてアポリネール(詩人)とも文通。 |
3/17 |
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ギャラリー・ダダオープン。第一回展覧会はカ
ンペンドンク、カンディンスキー、クレー、メンゼら。3/23にはオープニングパーティーが開かれ、参加者400人にものぼった。ギャラリー・ダダではこ
の後三週間、毎週水曜日にギャラリー見学ツアーが組まれる。ツァラは3/24に「表現主義と抽象芸術」、3/28に「新しい芸術について」という講演を
行った。第二回は4/9~30で、エルンスト、カンディンスキー、ココシュカ、クレーなどが参加した。 |
4/14 |
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第二回ギャラリー・ダダ開催のイベント「STURM-SOIREE(疾
風の夕べ)」が開かれる。目玉は黒人音楽と黒人ダンス、O・ココシュカ作「スフィンクスと麦わら男」の上演。ツァラは「これぞダダの演劇というものだ。」(強調はツァラによる)と大満足のもよう。日記のシメは、「Bravo!
&Bum bum!」とやっぱりハイテンション。 |
4/28 |
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21 |
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「SOIREE D'ART NOUVEAU(新
しい芸術の夕べ)」が開かれる。ツァラは7人による同時詩「冷たい光」を朗読。同時詩とは、複数の朗読者が同時に異なる詩文を朗読する形態の詩。 |
5/12 |
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「Soiree ALTE UND NEUE
KUNST DADA(新旧ダダ芸術の夕べ)」がギャラリー・ダダにて開かれる。「僕たちは本能的な沈思黙考と、獰猛なドンチャン騒ぎの混合を紹
介することに成功したので、それをもう一度やらなければならなかった。」とのことで、このイベントは5/19に再演される。 |
7 |
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雑
誌「DADAⅠ recueuil d'art et de
litterature(ダダ1号 芸術・文学の集録)」発行。アルプ、リューティ、モスカルデ、サヴィーニョ、ヤンコ、メリアーノ、ツァラが参加。「書
物のノイローゼ 鋭敏な者たちと名づけられた画家たちの体温計」byツァラ |
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雑誌「DADA2」刊行。
定価2フラン。
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1918 |
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ツァラの初詩集「Vingt Cinq Poemes(二
十五の詩篇)」刊行。ヤンコの木版挿絵入り。
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7/23 |
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マイゼ会館にて、「SOIREE
TRISTAN TZARA(トリスタン・ツァラの夕べ)」開催。キャバレー・ヴォルテールはすでに閉鎖されていたし、ドイツから来た仲間(ヒュ
ルゼンベックなど)はほとんど帰国していた。残っていたのはツァラとヤンコ兄弟、アルプ、セルナーたちだったが、これからあとはツァラの独壇場となる。
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←イベントのポスター。マルセル・
ヤンコ画。 |
12 |
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「DADA3」発行。この中に「ダダ宣
言1918」を発表。定価1.5フラン。
ヨーロッパ各国やアメリカでも出版され、ツァラの名は全欧米世界の前衛芸術家たちに広く知られるところとなった。特にツァラのこの宣言はパリの文学雑誌
「Litterature(文学)」のグループの青年たちに衝撃を与える。彼らはのちのシュルレアリストとなる人びとである。ツァラの思想は、当時新しい
芸術の形を求めながらも先の見えなかったパリの文学シーンにとって救世主のように思われた。アンドレ・ブルトンはダダ宣言1918を読み感激して、ツァラ
に手紙を書いている;「あなたの宣言には本当に感激いたしました。あなたの示された気迫を他の誰に期待すべきかもう私には分からないほどでした。今では私
のすべての関心はあなたへ向かっております。」
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デ
カルトの「私は私の前に人間が存在したかどうかなんて知りたくもない」という言葉が引用されている。「Directeur:TRISTAN TZARA」 |
ダダ宣言は一番最初のページ
に掲載されている。
ぎっしり文字がつまって三ページ。 |
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1919 |
1/16 |
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「芸術の館(クンストハウス)にてツァラの講演が行われる。
「抽象芸術について」スライド付き。 |
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「Edition Mouvement
Dada/391(ダダ運動出版391)」発行。定価2フラン。
391はニューヨークにいたピカビアがもともと発行していたものだが、1918年の8/21にツァラがピカビアへダダに協力するよう要請した手紙を書いて
から二人の仲は親密になり、互いに協力しあうようになった。チュリッヒで1000部印刷され、ツァラはそのうち960部をパリに送っている。 |
4/9 |
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商工会議所にて、弟9回ダダの夕べが催され
る。「この上なく過激 演出家:W・セルナー アクロバット調教師:ツァラ」との触れ込み。1500人の聴衆がホールを満たし、ツァラが日記に「ダダの決
定的勝利」と書くほどの成功を収めたが、以後チューリヒでのダダの活動は下火になってゆく。 |
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23 |
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雑誌「ANTHOLOGIE
DADA(DADA4-5)」発行。定価4フラン、豪華版20フラン。この号にはブルトンやスーポー、ルイ・アラゴンらパリの
「Litterature」グループやジャン・コクトー、ジャコメッティなども参加している。ドイツ語バージョンも作られた。
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表紙はハンス・アルプの木版画 |
こちらはフランシス・ピカビアのドローイ
ング |
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アルプVSツァラの見せ掛けの決闘が、レハルプで行われる。
二人は招待客たちの前で同じ方向に向けて大砲を撃った。 |
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雑誌「DER ZELTWEG(ツェルト
ヴェーグ)刊行。定価2フラン。ツェルトヴェーグはチューリヒの町の名前で、チューリヒ最後のダダ雑誌の刊行となる。 |
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1920 |
1/17 |
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ツァラ、パリのピカビアのアパルトマンに到着。 |
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