1919年、首都は存在しないも同然だったにしても、それは若きツァラに夢を見させる都市ではあり続けた。絶対的な保証として考えられたキュビズムとアポリネールの熱狂的な発見を思い出してみよう。若いツァラがそれにまったく感嘆していたということを我々は知っている。人生を賛美するに足り、また特にこの現代詩、新言語を創り出したこの詩人に向けられた魅了の手段。ギヨーム(アポリネール)はそのカリグラム(図形詩)と会話詩によって素晴らしい発明者となった。彼らはヨーロッパ文学に重くのしかかる会話とは程遠いところにいる。ルーマニアから見ると、詩人の輪郭は既に鮮やかな伝説となって、ツァラの目に映ったのである。
象徴派の詩人イヨン・ミヌレスコのおかげで、常に最新の情報を待ち伏せするようなかたちで、ツァラはアポリネールの詩を読むことが出来た。彼は最終的にはフランスから刊行された全仕事をルーマニアへ送り届けるに至った。好奇心の強い精神にとって、パリへ合流することは欠かせないこととなっていた。その精神はつまりアポリネールのものであり、アンドレ・サルモン、ドゥアニエ・ルソー、そしてピカソのものだ……モンパルナスとル・ドーム、モンマルトルと洗濯船は出発への欲求を駆り立てた。
チューリヒでは、ツァラはアポリネールに彼の最初の刊行物を送るに事欠かず、また彼は一篇の詩も願い出た。返事の中で、『アルコール』の著者(彼は彼に手紙を書いた若い詩人に返信することを習慣としていた)は、一枚のポストカードにこう書いてよこした。「あなたの出版物を受け取りました。ありがとう。最近の詩の中からひとつをお送りしましょう。また書いてください。」
さて時は1919年の秋である。もちろん戦争はまだ続いており、また何より彼らの国粋化によりコラボレーター達と一つの雑誌に書くことを拒む詩人たちがいた。コラボレーターとはつまり、ドイツ人である。
しかしそんなことはどうでもよかった。ダダ2号の中で、ツァラは最も称賛すべきテキストを書いている。「この詩人にとって、人生は回転する遊戯であり、交互に巡る悪ふざけと悲哀、愚直、純朴と現代性について大真面目だ。(……)意外性とはいたるところで爆発する星であり、速さは落ち着いて好奇的な語り手と、自発的な肯定と絶え間ない新しさの中で結婚する。」
アポリネールはそこにはおらず、彼はツァラに、彼が創刊したい雑誌へ何篇かの詩を求めた。彼はそれらを作家のピエール・ルヴェルディへ、ノール・スュド誌上に刊行させるために譲り渡した。ツァラの好意的な返事は検閲によって差し止められた。それはずっと遅くになってから語られるものだ:「僕が(ドイツ人に売られている、僕がスパイであるという)ブラックリストに載っているという噂はパリで広まっており、アポリネールとルヴェルディは互いに、且つ暴力的に、ノール・スュドへの寄稿を僕に頼むことで、当局に自白することを恐れている。これらの噂は、ほぼ確実に『非妥協』(おそらく雑誌)によって投げかけられていた。このことは、アポリネールをしてピエール・アルベルト-ビローにももう一つの雑誌『シック』(原文のまま、という意味)への寄稿を頼まざるを得ないこととなった。
アポリネールは、全ての協定を押しのけるこの若いルーマニア人に惹かれているようだ。1917年の12月、彼はその称賛を包み隠さず述べている。「ずっと前からあなたの才能に惚れ惚れしており、私が先立つ道の中で指導をさせていただくという光栄にあずかればあずかるほど、もっと好きになります。ですが一線を越えないようにしてください」
その何ヶ月か前に、新たに発見された手紙の中で、しかしツァラはこれを読むことが出来なかったのであるが、アポリネールはこの青年とヒューゴ・バルを彼らのキャバレー・ヴォルテールについて褒め称えていた。このような往信を夢見る若い世代の作家は大勢おり、彼らは会見や支持を希って自ら身を投じていた。
1916年3月17日の戦争による負傷の療養から、彼らは時々、モンパルナスの隣にあるサン・ジェルマン・デ・プレのテラスでアポリネールと再会した。彼は彼の「フランスの水銀」という年代記に手直しを加え、当時の新しい雑誌に何篇かの詩を発表した。この、その頭に巻いた大量の包帯で国民のヒーローのようになった人物に、いかにして影響されずにおれるだろう。レヴェイヨン(クリスマスや大晦日の真夜中の夜食、夜通しの祝宴)のために、ポール・デルメー、未来のダダの活動家は、名誉をもってオルレアン宮で宴会を催した。
ツァラは全てを知っていたが、彼には「人殺しの詩人」について語る次官は無かった。1918年の11月、彼がアポリネールの死を知ったとき、ツァラはすぐさま友人のピカビアに知らせ、ピカビアはこう返信した。「ああ、僕は古い友人のアポリネールの死を知っていた。ショックだった。本当の友達を亡くすというのはつらいことだ。」
年月を過ごす中で、ツァラは、アポリネールに対する完全な誠意を守ることになる。彼の書斎は、明らかな足跡を保存する。まるで、満足に行えなかったアポリネールとの会見を埋めるかのように、いくつかのこの世に一つしかない文献を、書棚に並べた。そこには「シモン・マージュ」の手書きの原稿、さまざまなオリジナル原稿、そして更には校正された初版の「アルコール」(メルキュール・ド・フランスのための)の貴重な版―アポリネールは独立した現代詩の一つの宣言のように、そこから全ての句読点を除去した―、彼の生きた頃にロベルトとソニア・ドゥローネーに送られた書物、それがツァラに贈られ巡ってきたもの、など。1953年には、メイヤー・リーヴル・クラブ(=最上の本クラブ)は新編「アルコール」に、ツァラ自身によってコメントされた最初の校正のコピーをもってとりかかることになる。
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