Zurich

 


  このロジェ・ルシアン(Logeais Lucien)とマダム・ユング(Jung)、私が昨晩7時15分頃、カフェ・Splendidで関係を絶った人々とは、昨日の昼頃に初めて知り合いました。
  前述の時間に、ロジェはホテル・Seehofの私の部屋に、セルナーの住所を聞きにやってきました。彼はセルナーを5年前から知っていると主張し、ドイツ出身だと言いました。私の住所を、彼は私の前の住所、SeefeldstrasseのKatz氏のところで教わったのでしょう。私はロジェに、ジュネーヴのDr.セルナーの住所を教えました。Chemin des Roches 2です。ロジェは私に、ホテル・Beatenhofの彼の部屋を訪ねないかと誘いました。私は彼に特になにも約束せず、ロジェは去りました。午後、5時半頃に私は部屋を出て、徒歩でBahnhofstrasseのクオニ(Kuoni)兄弟のところへ行きました。私が昨日のPfauen劇場での、私もいくらか影響を与えた公演のチケットを買ったところです。Bahnhofstrasse通りを歩きながら、私はロジェとの約束を思い出し、ホテル・Beatenhofに行くと、彼はカフェ・Splendidにいると教えられました。私はそこへ行き、そこでロジェと一人の女性に会いました。彼女が、私に、チロルを越えるハイキングをロジェと一緒に8日間行ったと言い、ジュネーヴでもそれをするつもりなのだが、必要なだけのお金がないと言ったのです。警察が来て、私達を逮捕したとき、私は飲み物も頼んでいませんでした。
  私自身、私はボルシェヴィキのプロパガンダには積極的ではありません。ボルシェヴィズムには反対だとも認めましょう。私の知っている限り、Dr.セルナーも、この傾向の支持者ではありません。ロジェがセルナーとコンタクトをとりたがったことについては、私は旧友がセルナーと会いたかったのだと理解したいと思います。Beatenhofで彼に会おうとしたのは、ドイツでの生活状況についての情報を得るためでした。とりわけ、そこでは飢餓と住宅難が猛威を振るっているという、さまざまな意見を聞いたからです。ロジェはドイツにいたと、ホテル・Seehofに来たときに言っていましたから。女性が病気であるか否か、私は何も知りません、ただ彼女の口の神経質な痙攣から推測しただけです。私自身、Steinwiesstrasse, Zurich 7のDr.Strasserのところで、神経症の治療を受けていました。
  今日の午後に連邦の予審に出廷するので、Dr.Bickelをよく読んでおきます。


           読了、同意     (Samuel Rosenstock)


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