INTRODUCTION
Henri Behar

アンリ・ベアール



  文学史の上では、トリスタン・ツァラはダダの創立者として知られている。ダダイズムは1916年にチューリヒで生まれた、国際的な文学と芸術の運動で、三大陸にまたがって発展した。この運動は既存の文学全てに対し、ラディカルな断絶を成し遂げた。ツァラによって書かれた七つのダダ宣言の意図するところというだけでなく、現実においても、これは宣言文にも提示してあることだが、書かれた流儀というものにはこれほどにも従わぬ、彼の詩が出版された。この詩と宣言は大戦の終わりにフランスに届けられ、いくらかの若者たちの熱狂を引き起こした。彼らは雑誌『文学』の主要メンバーであり、少しずつダダに傾倒してゆく。ツァラのパリ滞在を経て、彼らはその潮流を公然と負って立つようになる。その名をブルトン、アラゴン、スーポー、エリュアールなどといった。それからは、彼らは我々の知る文学史上で、それから彼らの神秘主義的な未来において、言ってみれば最初のダダ加盟を、とりたてて暴力的な手段には出なかったものの、実現したのである。だがはたして、ツァラのダダ的作品である「読むこと(LIRE)」というものは、今までに一度でも読まれたことがあるだろうか。一度でもそれを、美学的領域と同じように、知的領域へと、二重に革命的な重要性を解き放ってやるやり方を、探したものがあっただろうか。私にはわからない。

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  これから、ヨーロッパ、特にフランスでのダダの冒険を詳しく見ていくことにしよう。よく知られていることだが、それは第一次世界大戦の大量殺戮に対して掻き立てられた深い嫌悪から発している。価値崩壊の危機、警察国家によって運び込まれる大量の頭蓋骨。しかしこのようなことを言うとき、私達は一般的に、ダダ運動の創立に至るまでのツァラの個人的な道程を無視してしまっている。彼がその中で演じた役割の正確な姿、彼の個人的な話や行動に関係するもの全てについては、ツァラは非常に慎み深く、謙虚であった。
 ルーマニアに生まれ―彼は長い間子供時代に見た広大な森へのノスタルジーを持ち続けた―1912年、16歳になったときには二人の友人と共にブカレストでアヴァンギャルドの雑誌を創る。雑誌は『象徴』とタイトルされ、伝統的にフランス文化に関心を向けていたその国に、象徴主義への知識を運び入れた。特に、メーテルリンク、ヴェルハーレン、ラフォルグ等である。数学者への道を歩んでいたので(またルーマニアの首都で彼に訪れた芸術的その他の破壊から息子を隔離するために)、両親は彼の友人ヤンコが理工科学校で建築を勉強していたチューリヒに、専門学を深めるために彼を送った。彼がアポリネールの『アルコール』と、その雑誌『パリの夕べ』に出会ったのはそこであった。この出会いはツァラの象徴主義への傾倒に終わりをもたらしたが、彼のルーマニア初期詩篇を破棄させるには及ばず、彼はすべてをイヨン・ヴィネアにたくした。その後、然るべき時にヴィネアはそれを出版することになる。
  1915年の終わりに、彼は「人生の最も高い条件で、理想的な任意の方法、または芸術の前代未聞の手段を熱望する文学者や芸術家の真ん中」に入り込む。これは彼がその貴重な自伝的小説『賭金を晴れ』(O.C.I.278)で述べていることだ。このことは、彼の眼に、反逆と革命が未だ明確なプランの上に乗せられていなかったことをよく示している。それから1916年の2月に、本質的にアナーキストであるドイツ脱走兵のヒューゴ・バルが、モンマルトルのキャバレー風の芸術サロンを開いた。これがキャバレー・ヴォルテールである。広告に惹きつけられて、ヤンコ、ハンス・アルプ、そしてツァラは彼とその伴侶、歌手エミー・ヘニングスに加わることを申し出た。最初のイベントから、ツァラは早速ポケットに持っていた数編のルーマニア詩をフランス語に訳して朗読した。これは、複数の声によって構成される同時詩の題材にするためであったが、これについてはまた後ほど詳しく述べることにしよう。ヒューゴ・バルは雑誌『キャバレー・ヴォルテール』の最初で最後の巻を出版した。そこにはフランス語でこう宣言してある。「キャバレー・ヴォルテールの活動を明確にしなければならない。その最終目的は、戦争や祖国のはるか頭上に、独立した人間が異なる理想を生きているのだということを、もう一度思い起こすことである。」そして終わりに、彼は次号、雑誌『ダダ(Dada)』の広告をしている。伝説によればこの語は1916年2月8日に、ツァラとヒュルゼンベックにより、ラルース辞典にでたらめにペーパーナイフを差し込んで発見されたという。(無論、伝説を乱すことはならない。)ツァラは1916年7月14日に最初の『ダダ宣言』を発表し、『アンチピリン氏の最初の天上冒険』でコレクション・ダダが序幕された。バルとの最初の仲違いによって、運動の指揮の責任は彼の手にもたらされた。既にツァラはアヴァンギャルドの全詩人、芸術家とコンタクトを取っていた。それは国境を越えて、フランス、ドイツ、イタリアへ、将来的に雑誌ダダの輸送をするための根回しであった。ギャラリー・ダダもオープンし、そこでツァラは古代芸術と新たな芸術について、また表現主義と抽象芸術についての講演も行う。そしてついに、1917年7月、一年の遅れをもってダダ1号が出版された。バルの決定的な撤退で、彼はグループ全体の完全な責任者となる。グループは観衆の反応に応じてラディカルになってゆき、キュビズム、未来派、表現主義といった全てのモダンな風潮との断絶に、徹底した。生の賛美のためにである。
  注目すべきことに、雑誌ダダのたった4冊の発行によって、コミュニケーションの大家であったツァラは、国際的な観衆を獲得するに至っていた。個人主義、芸術家の完全な自由、ドグマと既存の価値の否定、反順応主義、自発性、これらを守りながら、である。本当のところは、これらのコンセプトは12月に印刷され7月23日に出版、フランスには1919年の初頭にやってくる『ダダ宣言1918』で初めて日の目を浴びる。戦争は終わり、まったくもって遺憾なヴェルサイユとトリアノン条約にいずれ辿り着くことになる、際限のない平和交渉が始まっていた。豊饒な生命力とニーチェ的熱情に感動して、ブルトンとその友人達はツァラとコンタクトを取りはじめる。彼らは見事に破壊され、しかし確かなリズムによって書かれた彼の詩のいくつかを、法的に受認された貴重な雑誌『シック』と『ノール・シュド』で読むことが出来ただけにいっそう、この「最後の一手の策略家」になり得たかもしれない人物に興味を抱いたのだった。彼らは発行し始めたばかりの、戦争以来中断されていた『ヌーベル・レヴュー・フランセーズ』に取って代わることを期待して創られた雑誌『文学』に、ツァラのためのページを用意した。
  ちょうど同じとき、ツァラは半年以上も文通を続けていたフランシス・ピカビアの訪問を受ける。画家であり、雑誌『391』の主催者でもあった彼は、スイスに神経性鬱病の治療にやって来ていた。若い詩人との出会いは彼に高揚を取り戻させ、お互いに、それぞれの雑誌を同時に刊行する熱意を得た。パリで会う約束も、このとき取り付けられた。
  1920年1月17日、トリスタン・ツァラは出産したばかりのピカビアの愛人の部屋に唐突に到着する。彼は赤ん坊を繰り返し「ダダ、ダダ」と教えながらあやした。代表団はすぐさまアパートのベルを鳴らした。やってきたのはアラゴン、ブルトン、スーポーであり、彼らはツァラを新たなランボーの如く待ちこがれていたのだ。だから、そこに黒髪の眼鏡をかけた小男が、目に髪をひとふさ垂らしながら、rを巻いて早口でわかりにくいフランス語を喋っているのを見たときの驚きは、少なくはなかった。彼らはそのわかりにくいフランス語に慣れなければならなかったし、また同時に、彼の大きく響く笑い声に魅了されもしたようだ。
  ツァラは直ちに、ダダの新たな局面に加担した。この運動はパリで三つの季節の間続くことになる。彼はチューリヒと同じエネルギーを持ち込んだが、賭金は同じではなかった。大衆を惹きつけ征服する時期が過ぎると、今度はフランスのブルジョワジーによって仕掛けられる落とし穴を避けなければならなかった。国民的な風采を与えるために、新しいものは全てダチョウのようにむさぼる程までに知的な人々である。その中で、ひとりの支持者から別の支持者へと飛び移りながら、彼はそのエスカレートに身をゆだねなければならなかった。これら全てが、非常に疲れるものだった。対立は、他のどんな人間のグループにも訪れるように、すぐに目に見えるものになった。まずは1921年5月、ブルトンとアラゴンが彼らの青春時代のアイドルでもあったモーリス・バレスを「精神に対する罪」のかどで模擬裁判にかける企画を立てたとき、彼らと同じ影響をを受けたわけでも、愛国思想家の大家となったエゴイズム詩人を懲らしめるつもりも毛頭なかったツァラは、『シャンソン・ダダ』を証言のかわりに大声で歌い、その胸くその悪さを表明した。そして翌年、また同じくアンドレ・ブルトンが、五つの雑誌の代表者の協力により『モダン精神の指令と擁護の決定のための会議』を開催したとき、ツァラは次のような、まったくもって正しいといえる素晴らしい理由によって参加を拒んだ。つまり、ダダはモダンではなく、そして指令を出すどころか、受けることだって金輪際しないだろうということである。
  そういうわけで、ダダには終止符を打たなければならなかった。少なくとも、運動という形をとったダダは終わりであった。ダダ精神について言えば、それは永遠に続くものだ。『ダダ運動に最初の辞表を出したのは、この私です。』と、彼は1922年の9月にワイマールで行われたダダ‐構成主義者会議での講演で、こう表明せざるを得なかった。
  事実、ダダはある二者択一の鋼鉄の顎の間に挟まれていたのだ。全てが廃墟になってしまわない限り、破壊を続けるか。もしくは、知的で美しい構築を始めるか。パリの観衆からは飽きられており、この点についてブルトンと対立していたツァラは、まだ崩されなければならないあまりに多くの機構が残っていると考えた。同じように彼は、チェレ・カンパニーのロシア人たちが『ガス心臓』の再演を持ちかけたときも、これを承諾した。かつてのダダ仲間たちはこれを非難し、乱闘、少しの流血沙汰。こうして(一時的にだが)友情が終わった。ダダは1923年7月、ミッシェル劇場のせりに消えた。
  しかし、物語の最も美しいところは、私にとっては、第二次世界大戦の間ニューヨークに亡命していたブルトンが、シャルル・ドゥイに、よく考えてみればその当時、ツァラは間違っていなかったと打ち明けたことである。
  その孤独な旅路を辿りながら、『七つの宣言』をはじめとし、『われらの鳥たち』といったダダ作品を出版し続けた男は、決して過去を否定することなく、常に先へと歩み続けるうちに、シュルレアリストとなったかつての仲間達と、彼の途上で出会うことになる。しかしこれはまた別の話で、私がこのコレクションから出版されている『種子と表皮』の紹介文ですでに語っているので、そちらを参照してほしい……
 

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