INTRODUCTION
Henri Behar

アンリ・ベアール



  「無名人の発明は、新たな形態を求める」と、ランボーはかの有名な手紙、通称『見者』(ポール・デメニー宛、1871年5月)の中で宣言した。これに反して、それ以後の文学的創作活動は、ジャンルの区別を尊重してきた。しかしダダ運動で全ては変わった。人間の表現の全形態(絵画、舞踏、音楽、映画、演劇、身振り)に対して攻撃を仕掛けたダダは、ポエジーというただひとつの状態にまでそれらを還元したのだった。私達がここでそうせざるを得ないように、文章としての創作だけで満足することは、それだけで既に大きな切断を経ているのである。書かれた形態に辿りつく前は、ダダのテキストは宣言にしろ詩にしろ、まずはじめに大衆に向けられた声高な発現であり、身振りや声音は観衆に直接作用し、内容や意味は、二次的なものではないにしろ、第二のものだったということを忘れてはいけない。つまりこれは演劇、宣言、詩といった形態の区別は、オリジナルな見世物としての統一性と、作品の一部である聴衆の最初の反応を犠牲にしたうえでの、後験的(ア・ポステリオリ)な再構成でしかないということである。
  詩をひとつの精神活動、もしくは「精神の書き取り」とし、自らの行動について解説することを拒みながら、ツァラは彼自身の創作の内部にある、言語についての自身の理論を、私達が一つのメタ・ディスクール(言説)とも考えることのできる、随所に散りばめられたいくつかの命題によって、それでも少しは説明している。それをひとつのよく構築された教義にまとめあげることが困難であるなら、私達はそこから少しは革命的な、論理的視点を掘り起こしてやることができよう。
  ツァラが二重の肯定(スラヴ言語と同じようにルーマニア語で)を彼固有のテーマに従い、何も意味しないこととみなされている運動を言い表すために採用したことは、いくらか驚くべきことである。矛盾するのは、この名前が一般化された否定、否認の狂騒を表したということだ。ひとつの命題は、それが否定的であるにしても、ひとつの意味を投げかける。そして、無ということは既に何かを意味したがっているのだということは、よく知られているはずだ。
  『カリグラム』の預言的な詩「勝利」において、アポリネールは宣言した。
  おお 口よ 人は新言語を探しているよ
  どの言語でもない言語の文法学者が 何も言えないような

ポール・エリュアールがその雑誌『ことわざ』の銘句として繰り返した決まり文句である。実際、ダダ的活動の本質は言語に向けられていた。言語はトラブルの扇動者のように訴訟にかけられ、新しい詩が自らを構築する最も純粋な要素を、不純物から取り出すために、こき下ろされ、ばらばらにされた。当時を振り返ってツァラはこうした集団的な歩みを、人間の愚かさを実演してみせた戦争に対する反逆として説明する。「こうして我々は社会の原理でさえも、また個人を繋ぐ仲介としての言語や、その場合にセメントとなる論理を、我々の攻撃の的とするようになった。」とは、『シュルレアリスムと戦後』(1948.O.C.V.67)において彼の言ったものである。社会によって慣例的に用いられる商品のように考えられた、関係性の言語は、詩人たちによって告発された。その革命的なラディカルさの中でこうした金融的示談を細かく切り刻むことを望んだダダは、言語の価値を暴落させていくことになる。
 ダダの活動をまとめる中で、アンドレ・ブルトンは、それとは知らずに、ソシュールがシーニュ(記号)の恣意性と名づけたものについて触れている。(スイスで、ダダイストたちは1916年に出版されたソシュールの一般言語学講義を知ることができた可能性があるが、それに言及する当時の資料はひとつもない。)「単語の最も一般的な意味において、私達は詩人ということで通っている。何故なら、何よりもまず私達が攻撃したのは、あらゆる慣習の中で最も悪いものである、言語だからである。私達は、一年会わなかった後に再会した女性に向けて、ボンジュールと言うやり方もとてもよく知っているし、アデューということもできるのである。」と、彼はダダ宣言の中で書いている。実際に、この特色に身を置いたツァラは、符号と足跡を掻き乱すために、ある単語のところに別の単語を配置して楽しんだりもしていた。例えば、彼がはじめに次のように書いた「そしてもし我々が人間性のない黒人芸術を言うために南を指すとすれば…」は、やがて次の文章になる。「そしてもし我々が扇風機と言うためにもったいぶって犯罪を示すなら」。
  言葉への不審から、ツァラは『弱き恋と苦き恋についてのダダ宣言』の中で、彼が大きな秘密と名づけるものを暴露する。「思考は口の中でつくられる。」単純な見かけに反して、この公式は曖昧なものだ。
  物質主義的な視点からみると、イデアについてのプラトン的概念を表明することで、この言葉は身体の外では思考は存在しえないということを意味することができる。(彼はピカソについても同じことを書いた。「思考は手のもとでつくられる。」)しかしまたこの言葉は、完全な唯名論の一種としても解釈される余地がある。これについてはアラゴンが、このようにはっきりと書き直している。「言葉の外には思考はない。」(『夢のとある波』、1924)どちらにせよ、儀礼的なシステム、符号の伝承としての言語こそが、叫びと動作の自由な表現のために、ここで問題にされているのである。ヤコブソンの言い方を借りれば、それはまるでコミュニケーションの機能が、言語の、話しかけによる意欲感的、感情的なメタ言語としての働きに、道を譲ったかのようである。
  言葉の外側で、ツァラは知的な一貫性の形式的な条件を攻撃する。ヨーロッパ文明を支配していたデカルト主義的論理は、いずれその文明を喪失させることにしかならず、別の新たな替わりを見つけることが必要だった。仲間達とともに、彼はプリミティズムに助けを求めた。彼は、人は同じ水に二度浴さないというヘラクレイトスの文句を引き合いに出しながら、自己同一性の原則を拒絶する。そして彼は、等号でつなげられた反意語の鎖を作り出すことによって、非‐矛盾の原則を反芻する。「Oui=Non」、「秩序=無秩序」、そしてまた彼は台詞を一貫性なしに繋ぎ合わせたりもした。つまり、彼は因果関係を疑ってかかったのである。
  絵画的な研究にインスピレーションを受けて、彼は詩の中に具体的な要素を、絵画とは異なる方法で導入したいと思うようになった。いくつかの詩は、純粋に音として作用する間奏によって中断されている。ツァラは詩の最小要素を定義する方法を探していたし、詩の核は母音にこそあると考えていた。我々が記号に再び生気を与えることを望んでいるかのように、母音は、単語が示す指示対象から、イマージュへと拡大された。「僕は母音が本質であり大地の分子であり、それゆえに原始的な音であるという原則から出発する」と、彼は『騒音主義の詩』の定義についてのエッセイで説明している(O.C.I.551)。同時代の文明を拒絶して、彼は芸術の原初の在り方に目を向け、リズムについて彼に教えた黒人詩のバルと共に最初の発見者となった。しかし彼はまたノストラダムスの預言の断片を、単語感のコントラストをつけるために詩の中に挿入するようなこともできた。さらに、ダダは全ての言語を話し、また観客にむけて、音の組み合わせで遊ぶことによってそれぞれが楽しむことができる数ヶ国語詩も提案した。
  ツァラの詩をもっとも特徴づけるもの、それは自由であった。読者の顔に向けて爆発する、造語というよりはむしろ希少な語を用いて書かれた行の上で示された活版印刷術の発明である。
  語の構成要素に関するこうした実験を除いては、ツァラは語彙の構造を作り変えるようなことはしなかった。ただ、非常に例外的なものとして、『cristalbluffmadone(水晶はったりマドンナ)』、『ventrerouge(赤腹)』といった、いくつかの語の接着を除いてではあるが。結局のところ、重要なことは、解釈する者に、彼が感じた通りに、伝統になどまったく左右されることなく、言葉の意味を形成する自由を与えることであった。語源的な関係性よりも、一瞬の感情の方が優位に立ったのである。さて、それではそろそろ、ダダの「タブラ・ラサ」について、語ることにしよう。
  
  

3へ

アーカイヴに戻る
トップに戻る