ユーゴー風のロマンティズムが大切にしていたものも、ツァラの猛攻撃を逃れることはできなかった。統辞法の立場は様々なやり方で窮地に追いやられた。断絶、節の中断、『とても格言的な格言』といった回文法、繰り返し。彼はある宣言では、各連ごとにこの挑発的な確認で区切りを入れている。「僕は自分をとても感じが好いと思っている。」そして、演劇『ガス心臓』では、登場人物たち(イオネスコの『禿頭のカンタトリーチェ』の前身ともなった)は、「会話が退屈になってきました」と繰り返す。
「矛盾は外見上のものにすぎず、間違いなく最上のおべっかである。」と、ブルトンは別の箇所で、ヴァレリーのように、自分自身にとって理解不能であるものなど何もないという考え方はこうして作られるのだとしながら、述べている。確かに間違いない。だが、ただひとつ、このような一節を除いてだ。「僕は今君と名乗る。」これは論理的に受け入れられない性質のものだ。たとえ我々がランボーの「私とはひとりの他者だ」という詩的な照準を引き合いに出したところででもである。同じように、『七つのダダ宣言』の別の肯定、「僕は古い作品をその新しさゆえに愛す。」
言葉についての仕事と統辞法は、大まかな意味において、詩の美学の第一要素である。我々は既に、ツァラがどれだけ、彼以前には引用される資格などもっていなかったもの、たとえば不均質なものや断片、無秩序なものを、構成された宇宙の中で採取して、テクストの中に持ち込みたがっていたかは、よく見てきた。
彼はその手で、チューリヒ・ダダ時代に、集団で複数の声によって演奏される詩の楽譜を作り上げた。例えば『黄色い寒さ』や『雄の熱病』である。『産褥熱』にいたっては、『アンチピリン氏の最初の天上冒険』の中で一部を成す爆発のような四重対話に実に見事に応じている。
初期において、チューリヒでは、ダダイストは観客に同時詩を提案していた。そこでは、話者それぞれが、好きな言語で表現し、彼本人の思考に沿い、音を出す人々や最終的にはひとつの同じフレーズに終結することを示し合わせた邪魔者たちに導かれた。この言語的不協和音の中で、聴衆は主旋律を自由に選ぶことが出来たし、自分の思うままに、彼の思考を参加させることができた。このように考案されて、同時詩は物語体でも描写体でもなく、定められた方向に向けて、命令も強調もない感動を掻き立てることを狙いとしたのである。
要するに、印刷されたテクストのやむをえぬ連続性は、大衆を前にして、全方向的な音響空間の中の多様なシークエンスに場所を譲ったのである。言葉の鎖の連続は、絵画的次元における同時性(語本来の意味での)と、音響的次元における継続する平行状態へと、姿を変えたのだった。
さらに、これらの詩的な実験は、綿密に企画され、ポスターで広告された見世物の間に作られたものだということを付け加えておこう。それが多量の群集を集めたであろうことは、私達にとって、少しも驚くべきことではない。残る問題は、観客の証言によれば、彼らが抗議運動に出るだけの知覚性を持っていたことである。日記の中で、ヒューゴ・バルはただちに、彼本来の神秘主義的な志向に沿った、哲学的なコメントをこの詩の上演について寄せている。「同時詩は、声の価値について取り扱っている。人間のオルガンは魂を、悪魔に取り憑かれた道連れに囲まれた彼の冒険旅行における個性こそを表象するのだ。騒音が地面を形作る;ろれつの回らぬもの、破壊的なもの、決定的なもの。詩人は、機械的なプロセスの中で人間の消滅を白日のもとに晒したいのである。典型的な省略法のなかで、彼は世界に対するvox
humana(人間の声)の葛藤を見せつける。世界とはそれを脅かし、利用しそして破壊するものであり、そこではリズムと騒音は避けることができない。」(『時を越える逃走』、1916年3月30日)
確実に、見世物の効果は企画者たちの目論見を超越していた。絵画と音楽の芸術的方法の詩への転換が、ほとんど認知はされていなかったとしても、公衆の無理解は充分に満足できるものだった(それでも、見世物へ頻繁に通うことにともなった、抗議の軽減や馴れ合いについては、ともに言及しておかなければなるまい)。そうしたものは、彼らの成功の証をそこに見た発案者たちによって求められていた、身体的なリアクションによってあらわれた。ダダは、それが観客を完全な白痴状態にまで追いやったと確信するときに、喜びを感じるのだった。良い教育や、学びとってきた文化を無効にしたあとで、彼はその真の働き、つまりタブラ・ラサの上に新たな人間を創り出すことに、着手できたのである。
当時の絵画技法を転用して、ツァラはコラージュも実践した。彼個人のディスクールの中に組み込むために、新聞から言葉を借りてきたり、完成された、既存の現実物の断片をそのまま使ったり(マルセル・デュシャンがレディ・メイドと名づけたものと同じである)、ついにはまったく別のことを言うためにいくらか名の知れたテクストを改竄したり、どんなものにせよとにかくコラージュと呼ばれるものである。
記号と言語の混同、ちぐはぐな材料の混ぜ合わせ。そして新たな結合は、新しい法から立ち上がる、確固として貴重な効果を生み出した。
同時に言及しておくと、ツァラは詩的な文筆活動の中に偶然を持ち込んだ。彼の「ダダイストの詩を作るには」という指南書では帽子の中の言葉について述べられているが、これは単なるダダのユーモアのひとつでしかないのにもかかわらず、まるで運動の全ての詩的活動を要約したものであるかのように考えられた。
ニヒリズムの吟遊詩人のように紹介されて、ツァラはその生産力と、また彼が不可能だと表明したものによって、新しい詩の進化の鎖の中で、欠くことのできないないひとつの輪となった。事実、彼にとって、破壊とは創造であった。彼は過去のタブラ・ラサを行い、新鮮な空気の上に、彼本来の矛盾を受け入れ、思考の堰を切り開いて、建設を行ったのである。その時から、我々はいかなる論理的な規則も見つけることのできないイメージの奔流の中に飲み込まれたのだ。批評家マルセル・レイモンはこう問いかける。「我々は一度でも、関係性を逃れ、詩の力、つまり言語の力を借りて、母なるものの神秘的な領域へと至る可能性を手にすることはきないのであろうか?」(『シュルレアリスムにおけるボードレールについて、Corti、1940、p280)。このユートピア的完全主義の現実化よりも前に、ツァラは空想上のある人物を創り出す。その人物こそが、彼のスポークスマンであり、同時に分身でもある、反哲学者Aa氏である。 |