Envoyez la petite musique
TRISTAN TZARA  Moinesti(Toumanie, 1896 - Paris ,1963)
Madeleine Chapsal

68歳、ツァラは常にダダに騎乗していた!


  トリスタン・ツァラについて、私はひとつのことしか知らない:彼は一つの音節を二倍にし、そして有名になった。有名よりなお上だ、彼は私たちの条件づけられた反射神経の一部分を成す。誰かが「ダダ」と言えば、私たちはすぐさま思う、「ツァラ!」。現実に「ダダ」という単語を覆うものについては、私はおおむねのところしかそれを知らない。私はツァラ自身について全く知らなかった。彼の出生、人生、そして彼がまだ生きているのか…
  私は調べた: ツァラ、彼は何処だ?驚いたことに答えはこう返ってきた 「すぐ近く。」
  実に彼はリール通りに住んでいたのだ、ジャック・ラカンのすぐ隣の建物に!
  何日か後、私は訪ねた。ツァラは私を彼の部屋へ招いた、彼のベッドからそう遠くないところへ。彼の目は暗褐色の円に縁取られ、弱々しい声、そして最初の瞬間、私はこんなにも明らかに病に冒された人間を邪魔しにやって来たことを気まずく感じた。死を待つ人。
  しかしツァラは微笑をもって私を勇気付け、とてもやさしく私を座らせてくれた。非常に速く、私は彼が自らの死を全く無視しているような気持ちになった。少なくとも、多くの重病人のように、病は進行していくのではないのか?
  私は彼に、彼を生き残らせるであろうものについて話し始めた、彼の作品、ダダ宣言の再編。すぐに、私はどの点で彼の精神が生きながら、運動の中で留まっていたかを感じた。
  アンドレ・ブルトン、私は彼について人格の中に閉じこもった人物と言う感情を抱いていたが、同じように、死の間際のこの人物は、何かに成り、常に探し求め、進化するように見えた。まったく私たちと同じである!……
  やがて、私たちは二人の友人のように喋った。芸術について、その時の社会における彼の位置について、文学について……私たちは同じ迷いの中に、同じ憧れの中に生きていた!
  「何がお好きですか?」
  「全てが好きです!」 彼は答えた。
  彼は私に自分が非常に「楽観主義者」であると言った、古い鎖は断ち切らなければならず、新しい「humanisation(人間的なものになること、以下人間化と訳す)」は動き出し、またそれは「全速力」で発展を遂げるだろうと……
  彼はゆっくりした、抑制された声で喋った。明らかに体力に気を遣ってのことだった。私は驚くべき称賛をもって彼を眺めた。二つの壮絶な戦争を体験してなおかつ「人間化」を信じるのか?彼が、その(人間化の)栄光の勝利のために戦うのをやめなかったのは本当だ。彼が信じていたのは彼自身の内であり、彼そのものの創造の飛翔の中においてであった。
  1916年、ヴァーダンの戦いと同じ日(私の父はそこにいた)、チューリヒで、大陸が崩壊する凶悪な狂乱に激しく苛立っていたツァラは、ダダを創立することを考えていた。革命運動。挑発。暴力ではない。「当時の人間にいったいどうやって更なる暴力を追加できたでしょう?」 彼は言った。(「どれだけの幸福、喜びをもってして我々は戦争へ向かっただろう!」と私の父は語った。) しかし帰り道には、反対に、各々が自分の中に創造者の魂を持っていた。生への欲動、そして、死の拒絶。
  私の前にいる男はおだやかであった。しかし彼は彼の同時代人の激高を巻き起こす文章を書いたのだ。そして芸術作品の波しぶきのような爆発の手ほどきをした。デュシャン、ピカソ、同時代絵画のすべてが、そしてまた現代音楽、ヴァレーズ、サティ、それから後にヌーボー・ロマン、ベケット、イオネスコ、そしてヌーボー・シネマ、ゴダール、トリュフォー、ルスネー、これらすべての、規則も束縛もなしに創作したものたちは、ダダに恩があるのだ……
  私もそうだ、他の人たちと同じように、私もダダイズムやシュルレアリスムに背中を押された、いちばん私にとって本質的な道を開くに当たって。意見を考慮に入れることなく。
  ツァラは私に、書くことを続けると言った。何を?もちろん、詩である!そして彼は、最も生きいきと彼の心を動かすものを述べるためにこのようなフレーズを言った。「愛、詩、それしかありません……そして革命!」
  ブルトンもまた全く同じことを私に言わなかっただろうか?はじめは、ツァラとブルトンは非常に近しく、殆ど混同し、それから彼らは距離をとった。
  彼らのスローガンは、実際、同じだった。しかし彼らの生き方が対立したのだ。
  ブルトンは偉人であることの重要性を信じていた。彼は伝説を鍛造し、一歩一歩、それを守った。それは、同時代人に強く印象を与え、彼の理念を押し付けるための「戦争の機械」だった。
  ツァラ、彼は、石化作用に似たものすべてを遠ざけた。彼はもちろん病気だったが、しかし私は彼の中に、断固とした消去の意志を感じた。謙虚さからではなく、すべてのことをより楽しむために: 瞬間、感情、理想、語り、遊戯、新しさ……要するに彼は自由だった、ブルトンよりもよっぽど!
  彼のたった一人の存在が私を興奮させた。私はエネルギーをいっぱいに詰め込まれたように感じ、まさに彼に提案しようとしていた、一緒に映画や、絵画や写真の展覧会に行くことを、未来の力の向かう先をよりよく読み取れるよう、彼が私を助けてくれるために!
  彼がその単調な声で、私にこう言った時、私は茫然とした。「お分かりでしょう、私はちょっと疲れたみたいです。もうお帰りになられた方がよろしいでしょう。また次の機会にいらして下さい……」 何ということだ、もう去らなければならないということを知るために私は来たのか?私はこれほどに彼を必要としていた。実際、彼は私に本質的なものを与えた。私が近づいた全ての作家の中で、トリスタン・ツァラは、私が聞こうと探していた事柄を最も早く、そして最も少ない言葉で語った人物であった。あなた自身の夢を作動させることへ導く小さな音楽……誰に任せることもなく……
  その後、トリスタン・ツァラは死んだ。ダダはいつまでも続く。


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