キャバレーの狂乱

 登場人物…トリスタン・ツァラ 1896年4月16日生まれ
         マルセル・ヤンコ 画家で詩人。ルーマニアからのツァラの友達
         ヒューゴ・バル  キャバレー・ヴォルテールのオーナー
         ハンス・アルプ  アルザスから来た彫刻家で詩人。


 1916年、時代は第一次世界大戦の真っ只中だった。ブカレスト大学から戦火を逃れるためもあって、ツァラはチューリヒに留学していた。友達のマルセル・ヤンコとその弟も一緒である。ツァラとヤンコは、ルーマニア政府の徴兵を精神障害者のふりをして潜り抜けてやってきていた。(ヤンコは、アンケート用紙にひたすら自分の誕生日を書き続けることで審査官を納得させた。)
 さて、時代は金の無い青年たちにとっては厳しいものだった。ヤンコはカフェやキャバレーで、弟と一緒にフランスやルーマニアの大衆歌を歌って生活費を稼いでいた。ある夜、彼はヒューゴ・バルという男に出会う。「僕は支配人として素晴らしい人物、ヒューゴ・バルと知り合いになった。彼はとても背が高くアシンメトリーな感じで、哲学者か詩人のようであった」と彼はバルを描写している。
 ヒューゴ・バルは文学キャバレーを作ることを計画していて、その話はヤンコをすぐに魅了した。ヤンコは何よりもまず画家であったので、古い宿屋を装飾することを提案する。彼はこのことをすぐさまツァラにも話した。
 いくらか暇をもてあましていた友人を説得するのに、そんなに長い時間はかからなかった。彼らはホテルの部屋でもう最初のイベントについて想像し、彼らの仲間にもそれを話した。イベントで出会った、反抗精神旺盛な若いアルザス人のハンス・アルプも彼らに続くものとなった。アルプは画家、彫刻家であり、気が向けば詩も書き、そしてキャバレーでの色事に、考えなしに身を投じていた。
 1916年2月2日、それか何晩か経った後、グループはマスコミ向けに最初の公式声明を作成した。それは「芸術的気晴らしの中心」の創設を堂々と宣言し、また世界中に送られるものとなった。それはアヴァンギャルドの小さな社交界に留まるのを断固として拒否したのである。
 
 メイレイで、スピゲルストラッスで、毎日のソワレをあなたと…バルはプログラムと完全に自発的な方向性を保つために、イベントを組織する中で圧倒的な博識さを発揮し、ダンスをリードした。ツァラはそれにつづき、また後に出版することになる沢山の記録をする。彼がキャバレーでの最初の夜について語るとき、それは全体的にハイテンションで書きなぐられ、やや一貫性を欠くものとなっている。「1916年2月 もっとも闇に沈んだ通りの陰で、赤いランタンの間に控え目な私立探偵たちがいる――誕生――キャバレー・ヴォルテールの誕生。」
 新しい芸術という壁の上では、未来派と抽象主義は混ざり合い、舞台の上は純粋な狂気に彩られている…ツァラはこう続ける:「毎晩、僕らは歌い、詩を暗誦し――人々――人びとにとって最も偉大な新芸術――(…)バラライカ、ロシアの夕べ、フランスの夕べ――唯一版の人びとは現れ暗唱もしくは自殺する、行きそして来る、人々の喜び、叫び:神と乱痴気騒ぎの国際的混沌、クリスタルと太りすぎの女”゛パリの橋の下で”。」あっというまに、彼らはそんな具合の酒宴に出席したためにもみくちゃになる。彼は戸口のところで群集を拒み、人生の中で、また放蕩の世界の真ん中でそのような状態にあることの幸福に酔った公衆に立ち向かわなければならなかった。それは始まったが同時に彼は争いをおさめることもしなければならなかった。スイス警察も決して遠いところにはいなかったからである。
 ありとあらゆるものがそこにあった。ツァラが「スペクタクル」の最後の準備を調整している間、バーで忙しくしているのはヤンコだ。彼らはいつも即興の出し物を上演し、また夜が明けるまで沢山飲んだ。ダンスの舞台上ではやがて皆が興奮状態になり、アフリカの打楽器のリズムに合わせて踊った。ずっと後の1948年に、ハンス・アルプは彼の友人ヤンコに、この幸せの瞬間をいつまでも絵画に刻み付けたことを感謝している。「隠れ家、つまり彼の小さな部屋で、ヤンコはジグザグの自然主義に身を捧げた。僕はこの秘密の悪癖について彼を許す。何故なら、彼は何人かの、代表者とみなされている素晴らしい人達、ツァラやヤンコ、バル、ヒュルゼンベック、マダム・ヘニングスや著者らを人びとが演壇の上に立たせていたキャバレーを、画布の上に定着させ、記憶に焼き付けたからだ。我々はものすごいサバトへ向かう列車に乗っている。僕ら以外の人々は叫び、笑い、盛んにジェスチャーをする。」
 
 彼の日記の中で、ヒューゴ・バルはほとんど毎日、周囲の狂乱について語っている。2月26日:「名付けようのない陶酔が皆を支配している。小さなキャバレーは破裂寸前で、気ちがいじみた感情遊戯の土壌になりそうだ。」 3月2日:「僕たちは、僕たちのクリエイティブで知的な力の全てが動因されることを望む公衆の期待によるスピードのせいで、ひどく忙しい。」 3月14日:「都市ぜんぶが恍惚によって蜂起してはじめて、キャバレーの存在理由は確立される。」グレイユ・マルクスは1989年に出版された彼の著作「20世紀の秘密の歴史」の中で、「これは自由の伝説だった」と述べる。「ダダ、それは囲まれた一時的な空間――つまり夜のキャバレーの中――の真ん中で作られた舞台装置の中の理想であり、全ては否定の体現でありえた。そこでは何でも起こりうるという理想であり、また結局のところ世界全体の中で芸術的に秩序を入れ替え、ここでもまた何でも起こりうるということを意味する理想であった。」
 我々は非常にしばしば言及し忘れるが、しかし全てのダダの冒険は、踊ること、吠えること、そしてもう眠らないことへの飽くなき欲望と共に、イベントから始まった。青年たちは幾度となく、疲労困憊しながらもキャバレーの舞台の上で陶酔してイベントを終える。そのような大騒ぎはそう簡単にはおさまらず、彼らのうちの一人の部屋での小さな集まりで幕を閉じることも多々あった。このような信じ難い自由さと快楽の必要から、愛もまた生まれる。実際、振付師ルドルフ・ヴァン・ラバンの学校がすぐ近くにあり、ダンサーの娘たちが授業が終わった後ソワレにやってきたので、彼らのまわりにはきれいな女の子が沢山いた。一人の娘が、ツァラの部屋に転がり込む。彼女の名前はマヤ・クルーセックだ。この青年は非常に内気で、出来事にたいして手も足も出ないように見えたが、そのことが逆にとても気に入られた。ヒューゴ・バルの友達のエミール・スズィッチャはこのように証言している。「彼のぎこちなさは、普通じゃないムードを作るのにとても貢献していた。彼はすごく女性にもてました……。」
 フランス人作家のルイ・アラゴンは、ジャック・ドゥーセという学芸の擁護者でありまたコレクターである人物に向けた、文学の歴史のプロジェクトのために、チューリヒ時代のツァラについてのアンケートをとった。統計は1923年に作成され、キャバレーのきわめて自由な空気について証言する。「彼らは客、つまり街の女全員を引き付けるために勧誘をした。ダンスがあり、タバリンの舞台があり、アトリエの茶番があった。これらについてヤンコがべらべら喋ったことについて、みんなはツァラが責任をとって償わなければならないと、あきれ、また懸念をもって見ていた。そして最初のダダイストたちは、ダンスと、遊蕩の興奮、もしくは炭酸カリウムの中の過マンガン酸塩の間で彼らの時間の分配にあずかっていた。」
 我々はアラゴンに対して、そのようなイベントに乗り損ねたことへの後悔のようなものを感じる。彼はずっと後になって少し付け加える…「実際のところ、私はこの乱痴気騒ぎの、ツァラが気の狂ったオーケストラを指揮し、クラクションの騒音の中に私たちのように彼も期待していた黒い福音を投げ出した美しい環境を惜しんでいる。」しかしアラゴンはまた同時に強烈なあてこすりも行う。「一日中抑圧されている」青年の胸を締め付けるような苦悶、頭痛、恐ろしいと知ったホテルの部屋や失われた日々、そして大きなカフェでのチェスの試合は、いずれにせよ長い間しぶとく続いた、と。
 しかし大都会は彼には良いものに感じられた。彼はこう記している:「往来と都会の騒音は、私の神経的な欠陥にとって欠かせない補充となった。私の目はこの没個性的な気晴らしを必要とし、私の足、私の腕、私の脳はそれらの近くにそういった活気があってはじめて働く。この興奮から、知的な外見の内側で、そのとても大胆な自主性は私のところで誕生した。」
 「僕たちはもっとましな人間たちをもたらしたい」と、ツァラは1917年に書いている。「彼らとは、唯一の友愛は、鉄の金属線が閃光に向かって登り、蒼い震えが雪を針を覆い隠す僕等の優しい眼差しによって大地に結ばれる高さにおいて、美が凝縮された生である、という強烈さの瞬間の中にあるということを理解している人々である。」
 この言葉は青年期の興奮の中で書かれたものだ。それは当時撮られた何枚かの写真を通してよく現れている。これはしばしば、我々がキャバレーの常連客を思い出す演出となる。彼らはかなり滑稽でまた奇妙であり、学生の騒動にも遠からず、そしてツァラはしょっちゅう、彼の友人たちにもてはやされ、ほめちぎられた。彼は真実、この怒れる青年たちを奮い立たせるこうした創造的な活動のなかで、かけがえのない役割を演じていたのである。         

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