2.ダダの誕生

 キャバレーがもし、明確で大きな混乱という印象を感じ良く与えれば、そのくっきりとした輪郭を持っているように見られる運動は荒々しい抗議という文脈に位置づけられる。この青年たちは、芸術と、彼らが吹き払ってしまうお愛想に対する不信を叫ぶ。何の規定も持たない漠然とした流儀をとることによって、彼らはモダン・アートの新しい派閥を作ることを拒んだのである。キャバレーでは彼らは強烈に人々を見放す。「僕らに属する人びとは、未来永劫自由だ」とツァラは断言する。「僕らは論理なんて少しも認めない。キュビズムや未来派の、いわゆる明確な理想の工房はもう充分だ。全ての者が叫ぶのだ、完全なる否定と破壊の大仕事がなされなければならないと。吹き払え、一掃せよ。」
 ハンス・アルプはまた別の考え方を断言する。「世界大戦の戦場」の真ん中で、「僕たちはこの時代の怒涛の狂乱の中にいる人々の救いとなる、基本的な芸術を探すのだ」と。
 この破壊の仕事の中には、ヨハネス・バーダーのような何人かの狂信者もいる。宗教兵として彼は絶えず戦闘に参加する。路傍の宣教師として、幻想家として、何の良心の咎めもなく、だ。キャバレーはその場所のために、扇動とスキャンダルのための芸術を取り扱う…選挙候補者やキリスト株式会社の社長として、バーダーは彼の公式声明を新聞の編集室に送りつける。ツァラはこの見事な腕前をもって巧みに操作された騒動を、ある意味魅了されて眺める。彼はこれから学んだことを、心にとどめておくことだろう。
 リヒャルト・ヒュルゼンベックは別のアヴァンギャルドの闘士であった。彼はドイツから戦火を逃れてやってきて、全ての順応主義(伝統・慣例・既成道徳に盲従する態度)のあり方に対する反逆を内蔵するこのグループと接触する。日記の中で、バルはこの新たな歓迎すべき到着が、文学が地下へ消えてしまうまで、定期的な騒音や衝撃をもたらしたと記している。ツァラは2月26日にこう記す。「ヒュルゼンベック到着 バン!バン!バンバンバン!最初の香りに異論なし――最高のソワレ――三ヶ国語による同時詩、宣言、騒音、黒人音楽。」
 ヒュルゼンベックは音をたててリズムを速めた。めくるめく快感の中で、彼らは道の言語による抽象詩を発明する。満員のホールで、バルは立体派の全部がボール紙で出来た衣装を窮屈そうに着込み、詩を朗読した。そのソワレに参加していたハンス・リヒターはこう語る…「彼はタワーみたいに動けず(彼はその紙の衣装の中で自ら動けないようにしていた)、このきれいな娘たちの集団や大爆笑し楽しそうに拍手喝采した堅実な小市民たちの前で、サヴォナロールのように、幻想的に、清らかに、身動き一つしなかった。」
 しばらくすると、皆は原始芸術に熱中する。マルセル・ヤンコは絵を描き、仮面を作った。ツァラはルーマニア語からのいくつかの面白い借用によって「黒人詩」を書いた。アフリカやマダガスカル、オセアニアで書かれた文章を発掘する研究のあとで、彼は、これらの文献をキャバレーでのイベントに組み込む。アランダ、キンヤ、ロリーテャといった部族の詩がプログラムで発表された。ヒューゴ・バルはいつもパーカッションをやり、マヤ・クルーセックはヤンコの作った仮面をつけて、トリスタン作の台本に沿って踊ることを受け入れる。
 運動はじつに評判になった。ヤンコは、「毎晩、新しい仲間たちが僕らのグループに加わる」と記している。
 ダダの名前は、はからずも辞書にまで記載された。そしてこのことはこの思い付きの真の発明者が誰なのかを知るためにずっと遅くになって勃発するばかばかしい論争の原因となる。キャバレー・ヴォルテールは閉店の可能性もあり、ツァラは既に奇妙で面白い実験を重ねていた。

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